はじまりは、3 万 5 千人の呑兵衛な兵士
ドイツワインの歴史は、3 万 5 千人の呑兵衛なローマ帝国の兵士たちがアルプス山脈を越えてドイツにやってきたことに始まると言われています。ドイツのぶどう栽培とワイン造りは、古代において、ローマ帝国がアルプス山脈を越えて広がったことがきっかけであり、ローマ帝国の拡大によって、現在のトリーア (アウグスタ・トレヴェロールム)、ケルン (コロニア・アグリッピネンシス) などの町が建設されました。
しかしながら、これらの町に駐留する 3 万 5 千人に及ぶ、毎日ワインを飲みたがるローマの兵士たちの喉の渇きをどうやって癒すのかという深刻な問題が発生します。そこで、最も現実的な解決策として、現地であるドイツでぶどうを栽培しワインを造ることが始められました。ローマ人たちは、ライン川やモーゼル川の両河畔に続く急峻な斜面と斜面に見られる粘土質の土壌が良質なぶどう栽培に最適であると、早くも目を付け、ぶどう栽培とワイン造りを開始しました。
紀元 1 世紀末に、ドミティアヌス帝は、本国からのワインの輸出を保護する目的で、アルプス以北におけるぶどう栽培の拡大を禁止する勅令を発布して、一時ドイツのワイン造りは停滞します。しかし、280 年にプロブス帝は、この勅令を廃止し、ドイツにおけるワイン造りは、再び拡大していきました。
修道士たちによるワイン造り
その後、ゲルマン民族の侵入とローマ帝国の崩壊、その後の混乱の時代に入りますが、ドイツでのワイン造りは廃れることなく、ゲルマン人の間でも、3 ~ 5 世紀の間には、ワイン造りが始まっていました。
その後、8 ~ 9 世紀に、カール大帝の元で、ドイツのワイン造りは盛んになり、ワイン産業は、フランク王国の経済を支える主要な産業となりました。カール大帝は、ぶどう栽培を奨励し、ワイン造りに関する法律を制定して、良質なワインが生み出されるようになります。そして、ベネディクト派をはじめ、キリスト教の修道士たちがワイン造り取り組むようになり、とりわけ、ラインガウにあるシトー派修道会のエバーバッハ修道院の修道士たちは、テロワールや醸造技術の研究に熱心でした。15 世紀には、シトー派修道会の修道士たちは、ラインガウの地において、リースリングが、急峻な河畔の斜面とドイツの長くゆっくりとした生育期に理想的であり、他のどんな品種よりも予測不可能な気候の変化によく耐えることを見つけます。また、ワイづくりにおいては、自分たちで飲む以上のワインを販売して、ドイツワインの品質の高さが、徐々に欧州全体に知られることになっていきます。また、ケルンは、ハンザ同盟の中心であり、ハンザ同盟を通じて、ドイツのワインが欧州各地に販売されるようになり、ワインはドイツ国民の国民的な飲み物と位置付けられるようになりました。
ぶどう栽培の衰退
しかしながら、ぶどう栽培は、14 世紀に起きたペストの流行、宗教改革の進展と混乱、30 年戦争やファルツ継承戦争など長引く戦争によって、徐々に衰退していき、そして、16 世紀後半から始まった欧州全体の寒冷化が重なり、ドイツのぶどう栽培は衰退してしまいす。この時期に、バイエルン・ドイツ北部・ドイツ東部でのワイン造りは、ほぼ無くなってしまいました。また、ぶどう栽培の北限が南下して、生産されるワインは糖度が十分に上がらなくなり、ドイツワインは酸味の強いものになってしまい、モーゼルやラインガウの優れた畑から生まれたワインでさえ、美味しく飲むのに何年もの熟成期間が必要であったと言われています。
ぶどう栽培の再興とリースリング栽培の拡大
18 世紀になると、収穫量の減少から、ワインは、国民的な飲料ではなく富裕層の飲み物となっていました。しかしながらぶどう栽培は、ライン川とその支流域で再興されていきます。貴族階級の人々がぶどう栽培の担い手となり、キリスト教教会のミサ用として、或いは輸出用としてのみならず、バロック時代の宮廷文化に欠かせない要素として重要なものになってきました。また、平坦で肥沃な土地は食料用作物に用いられ、ぶどう畑は丘陵地の痩せた土地に広がるようになりました。
そのような中、シトー派修道士たちは、リースリングが、長くゆっくりした生育期間に、理想的な晩熟型の品種であり、予測不可能な気候にもよく耐える品種であると考え、リースリングの栽培を拡大していきます。16 世紀の終わりから、徐々にライン・モーゼル・ヴォルムスにてリースリングの栽培が広がり、17、18 世紀には、ドイツ全域に広く植えられるようになりました。リースリングは、植えられている土地に良く馴染み、その特徴をワインに表現することから、ドイツワインが持つ多様性や個性を生み出す源になっていきました。