ドン・ペリニヨン師の活躍よりも前から銘醸地
シャンパーニュと言うと、フランスが誇る世界最高峰のスパークリング・ワインを意味し、「何世紀もの間、シャンパーニュは、祝祭と慰めのワインであった。凱旋と至福の時、シャンパーニュに勝る酒はない。また逆境にある時、それは、ほかのどんな酒もなしえないほどに士気を鼓舞してくれる。」 (マイケル・エドワーズ氏) と評価され、お祝いの象徴であるスパークリング・ワインの生産によって発展してきた産地と言えます。
しかしながら、ドン・ピエール・ペリニヨン師などの活躍より前、スパークリング・ワインの生産が主流になる前から、シャンパーニュは「聖地ランス」とその周辺で生産される名高いスティル・ワインの産地と位置付けられていました。
ローマ帝国時代に始まったワイン造り
フランス北東部、ローマ帝国領ガリア (後のフランス) に位置するシャンパーニュで、本格的なワイン造りが始まったのは、西暦 50 年頃、第 4 代皇帝クラウディウス~第 5 代皇帝ネロの時代と言われています。その後、ガリアのぶどう樹は、西暦 79 年に、ドミティアヌス帝によって、ローマ本国で生産されるワインを保護するために引き抜くように勅令が出され、一時的に衰退します。しかし、庭師の息子からローマ皇帝になったプロブス帝によって、西暦 280 年にぶどう栽培の禁止令は廃止され、ガリアにてワイン造りが再び盛んになりました。
ローマ帝国内にあって、シャンパーニュのワインは、大変な人気となりました。というのも、当時、ローマ本国のイタリアで生産されていたワインには、海水・松脂・銀梅花の実・ケシの実など、様々な香辛料で風味づけられていて、粗野でとげとげしいワインだったと言われています。それに対して、シャンパーニュのワインは、ぶどうだけで造られた純粋な味わいのワインだっだため、人気が出たのだろうと言われています。
クローヴィスと妻クロティルダ
ローマ帝国は、5 世紀になると滅亡へと向かい、ガリアは混乱の時代を迎えます。フランク族を統一したクローヴィスは、476 年の西ローマ帝国滅亡後も城塞都市のソワソン (Soissons) に残るローマ軍を、486 年に駆逐してランス (Reims) を中心とするガリアの王であると宣言します。しかし、ゲルマン民族のゴート族の脅威に悩まされ、苦境の中にありました。
クローヴィスの妻で、後に聖人に位置付けられるクロティルダは、敬虔なローマ・カトリックのキリスト教徒であり、神に助けを求めるようにクローヴィスを説得します。クローヴィスは、困難な状況を打開するするため、もしゴート族を打ち負かすことが出来たら、ローマ・カトリックに改宗すると誓います。その後、ゴート族を退けたクローヴィスは、妻クロティルダとの約束通り、3,000 人の将兵と共に、ローマ・カトリックに改宗することになりました。
「聖地ランス」の誕生
496 年のクリスマスの日に、後に聖レミと位置付けられるランス大司教のレミギウスによって洗礼を受け、クローヴィスと将兵たちとは、ランスのノートルダム大聖堂にて、一斉にキリスト教に改宗します。これによって、クローヴィスとフランク族は、ガリアの地に定住しているローマ・カトリック教徒であるローマ人からの支持を得ることに成功します。また、自身もローマ帝国の後継者であると考えるようになり、ガリアに住むローマ人たちと融合して一つになっていきます。そして、後に、クローヴィスの洗礼日は、フランスが誕生した日と言われるようになりました。
クローヴィスの洗礼式において、洗礼に用いられた聖油は、群衆が押し寄せた為、僧侶がレミギウスに渡すことが出来ず、神が一羽の白い鳩を使いとし、小瓶に入れて届けたと言う伝承が残っています。そして、後にランスの大司教は、天からもたらされた小瓶に入っていた聖なる液体は、ランスにあると宣言します。これによって、歴代のフランス王は、ランスのノートルダム大聖堂にて、聖油を保持するランス大司教によって聖別され、戴冠式を執り行うことが始まります。そして、ランスはフランスの聖地として、中世フランスの精神世界における首都と位置付けられるようになりました。
発展するシャンパーニュのワイン造り
クローヴィスと将兵たちは、洗礼式で使われたワインに霊験を感じ、洗礼式以降、すっかりワイン好きになったと言われています。ワインは、キリスト教の儀式に用いる特別な飲料という位置づけに加え、フランク王国が公認している飲み物となり、ぶどう栽培とワイン造りが、フランク王国全体に広がっていったと言われています。特に、フランク王国にとって特別な意味を持つ「聖地ランス」は、ぶどう畑にも多大な恩恵をもたらし、例えば、歴代のフランス王は、後にドン・ペリニヨン師が活躍するマルヌのオーヴィレール修道院などに多額の寄進を行っています。
洗礼式を行ったレミギウス大司教は、みずからぶどう樹を植え、後に多くの大手メゾンが本拠地を置くエペルネに別荘を構え、シャンパーニュ地方のぶどう畑を開墾・取得していき、シャンパーニュがワインによって発展する基礎になったと言われています。また、中世において、修道士や修道女がワインを愉しむことは、少しも精神的な腐敗とみなさていませんでした。例えば、8 世紀のランスにあった慈善救済院 (ホテル・デュー, Hotel-Dieu) の修道女規則には、「いかなる修道女であれ、他人の悪口を言ったり、不正な誓いを立てたりしたものは、その日はワインを飲むことが出来ない。」という一節があったそうです。そして、シャンパーニュ地方においても、他の地域と同様に、キリスト教の修道院などが中心となってぶどう畑の開墾やぶどう栽培、ワインの生産を行い、ワインを教会の儀式に用いながら販売して収入を得ていく原型が構築されていきました。
「聖地ランス」とその周辺で造られるシャンパーニュ産のワインは、フランス王の聖別や戴冠式に用いられるワインとして特別な意味を持つワインとなりました。そして、ドン・ピエール・ペリニヨン師の活躍よりも以前から、シャパーニュでは、教会勢力を中心に質の高いワインが生産されていきます。例えば、12 ~ 13 世紀に活躍したフィリップ・オーギュスト王、16 世紀のイギリス王、ヘンリー 8 世、17 世紀のルイ 14 世など、フランス王やイギリス王などが、シャンパーニュのワインを愛飲したことで、シャンパーニュの名声はさらに高まり、フランスの屈指の銘醸地と位置付けられるようになりました。